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首里城の火災と那覇大綱が切れたことの関係を考える
首里城の火災から10日あまりが経ちました。僕の家からは夜ライトアップされた首里城が見えてたまにぼんやりと首里城を眺めていたりしていたのですが、今は明かりの消えた首里方面を寂しく思います。
ところで、首里城の火災が報じられた当初から
「今年の那覇大綱が切れたのは首里城火災の前触れだったのでは」
という声が結構ありました。そういえば今年の第49回那覇まつりで開催された那覇大綱では西の大綱が切れたために引き分けという結果になっていました。これは前代未聞のことだそうです。
たしかに綱が切れるのはあんまり縁起が良いことでは無さそうな気もします。というわけで、本日は那覇大綱と首里城の火災について考えてみたいと思います。どっちかといえば調べ物記事なのでめちゃめちゃ文字が多い記事ですみません…!
そもそも那覇大綱とは何なのか
那覇大綱とは毎年那覇まつりで開催される綱引きで、その全長は200メートル。ギネスブックにも認定されている世界一の綱引きです。那覇ハーリー、ジュリ馬とあわせて那覇三大祭りともいわれています。2019年の参加人数は約1万5000人。会場となる久茂地交差点は人でごった返します。
一般的に沖縄で行われる綱引きは、集落単位で行われて集落を東・西のように2分して行われるのですが、那覇大綱は誰がどちらの綱を引いても良いことになっています。
また、綱引き後の枝綱(大綱にくっついた引くようの綱)は幸運を呼び込むとして、綱引き後には鎌を持った人々が綱をザクザク切るという、なんだかすごい光景も見ることができます。たまにお店の軒先などで飾られている綱も見る事ができます。
もともと那覇大綱の元になった綱引きは那覇4町(東・西・若狭・泉崎)で琉球王朝時代から行われていた綱引きを元にしており、廃藩置県後も那覇市の施政施行十周年や上水道の完成記念など慶事にあわせて行われていたようです。
しかし、1944年10月10日、激しい空襲により那覇市は90%近くが焼失してしまいます(10・10空襲)。戦後、復興を開始した那覇市は1971年の施政50周年を記念して戦争で途絶えてしまった綱引きを復活させます。それが現在の那覇大綱にあたります。
那覇大綱が復活した1971年、当時の那覇市長平良良松那覇市長は新聞に
とコメントしたそうです。首里城もそうですが、那覇大綱もまた戦後からの沖縄復興のシンボルといえる行事なのです。
那覇大綱が切れたのは初めてだったのか
さて、那覇大綱復活の経緯はさておき、気になるのは那覇大綱が切れたのは本当に今回が初めてだったのかということ。
那覇大綱の結果についてはある程度記念誌にまとまっています。それにプラスして近年の結果は新聞のデータベースから検索して結果をまとめます。
結果をまとめたものが上記の表になります。割と引き分けが多いのが気になりますが、那覇大綱はそれぞれ2m以上引き込まないと勝ちにならないというルールがあるようで、時間無いに決着がつかない場合は引き分けとなります。11回目までは60分間引き続けてるのでみんな恐ろしい体力ですね(途中で30分くらいで引き分けになっている。ルールの改定?)。
記念誌だと「引き分け」としか書かれていないものについては過去の新聞記事を閲覧しました。それによれば綱が切れたという事態は49回まで確認できませんでした。
しかしながら先述の『那覇大綱挽』 那覇大綱挽三十周年記念誌編集委員会 2001年に以下のような記述があるのを見つけました。
平成元年も綱が切れている…!
ところが事実を確認するために当時の沖縄タイムス、琉球新報の記事を見るも
(琉球新報 10月11日 23面)
綱が切れたことについての記述は無し。どういうことなんでしょうか?
勢い余って、綱引きを行っている一般社団法人 那覇大綱挽保存会にも電話で問い合わせをしてみました。
が、電話口では「平成元年に綱が切れたかは分からない。今回が初めてと聞いている」という回答を頂きました。若干のモヤモヤが残りますが、例え綱が切れたとしても試合に大きく影響する範囲ではなかったということでしょうか(中央から切れたってかなりだと思うのですが)。
綱引きで綱が切れることの意味
那覇大綱で過去に綱が切れたかははっきりは分からなかったので、別の角度から考えてみます。
「綱引きで綱が切れるということは凶兆なのか」
という点です。
沖縄では那覇大綱以外にも集落で綱引きが行われます。綱が切れるとどうなるのでしょうか。
沖縄県教育委員会が2004年に各地の綱引きをまとめた「沖縄の綱引き習俗調査報告書」というものがありますのでそれを見てみましょう。
①貫棒が抜けた場合は、雄綱の負け。
②貫棒が雌綱の頭に差し込めない場合、雄綱の負け。
③雌綱に雄綱が入らない場合は雌綱の負け。
④綱が切れた場合は、切れた綱の側の負け
他の地域にも④のような取り決めをしている例が見られる。
(「沖縄の綱引き習俗調査報告書」 2004年 沖縄県教育委員会編)
綱が切れたら綱が切れた方の負けということです。そういえば血湧き肉躍る、南風原喜屋武の綱引きという記事で紹介した南風原町喜屋武の綱引きでも綱が切れた方が負けになったことがありました。
また、南部のどこかの集落だったと思うのですが前に聞いた話で「昔は東・西で別々の場所で綱を作っていたが、ある時どちらが綱に鎖を仕込んでいることが発覚した。それ故に今は東・西同じ場所で綱を作っている、というのを聞いたことがあります。
多分綱が切れると、切れた側が負けるというルールは割と沖縄で一般的なものなのだと思います。
割と集落の綱引きはガチンコで行われることが多いので、綱が切れることは凶兆というよりは勝負に負ける(のでよくない)という意味が強いのではないかと思われます。
ちなみに那覇大綱の元になった那覇4町の綱引きの記録でも1910年に行われた綱引きで綱が切れて東が勝利したとの記録があるようです。復活前の那覇4町の綱引きはやはりガチンコ勝負で大綱についた手綱の数で東西がもめて8年間行われなくなったりもしているようです。
まとめ
というわけでまとめです。
過去に那覇大綱が切れたかは不明
平成元年にも切れたという記述があるものの、どのような状況だったのかは不明でした。もしもご存じの方がいらっしゃったら教えて下さい。
綱引きで綱が切れると切れた方が負け
沖縄の多くの集落では綱が切れた方が負けであるというルールが存在します。那覇大綱の元となった那覇4町の綱引きでも同じようなルールが設定されていた模様。
…あまりはっきりとした結果ではありませんが、もともと綱が切れることは凶兆というよりも勝負を決する事項として扱われており、縁起が悪いものではないのではないかと思われます(綱が切れたら縁起が悪いから負けという考え方もあるのかもしれないけど)。
というわけで、首里城の火事と那覇大綱が切れたことはあんまり関係無いのではないかと思うのです。むしろ首里城も那覇大綱も戦争からの復興のシンボルであり、那覇大綱が切れたのは首里城の火事の予兆である、みたいな考え方は個人的にちょっと寂しいなぁと思うわけです。
本当の所は検証できませんけど。