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字ライカムで旧集落の名残を探す
字ライカムの誕生
先日ニュースを見ていたらイオンモールライカムのある地域に新しい字として「字ライカム」を設定するという記事が出ていました。
もともとライカムはRyukyu Command(琉球軍司令部)の略だそうで、この一帯はライカムエリアと呼ばれていたのだそうです。それでもまさかイオンモールにライカムの名前が使われるとは思って無かったし、まさか字ライカムが誕生するとは思ってもいませんでした。
さて、字ライカムですが、もともとこの地域には比嘉という字がありました。戦後、面積のほとんどを米軍用地(泡瀬ゴルフ場)として接収されていたため隣村の島袋に編入されていたといいます。
そんな字比嘉の名残を本日は探してみたいと思います。
イオンモールライカムには字比嘉のモニュメントがある
まずはイオンモールライカムの南側の入り口から。
ここには字比嘉の集落跡地のモニュメントが建っています。
比嘉集落は東原(アガリバル)、内原(ウチバル)、前原(メーバル)、西原(イリバル)の4つの小字から成っていて、北中城村史によれば戦前の集落は大半が内原と西原にあったそうです。今だとイオンモールライカムの場所ですね。
碑には「泡瀬ゴルフ場の返還に当たって」という箇所に「郷友会としては、字比嘉集落の復活も模索したが、残用地では集落を形成するには狭隘で、さらに諸般の事情もあって断念せざるを得なかった」と書かれています。
比嘉の拝所は徳洲会病院にある
続いて字比嘉の拝所があるという場所に。イオンモールライカムの向かいの中部徳洲会病院です。
ちょっと歩くのですが、駐車場の脇に木が茂っている場所があります。
ここに比嘉の拝所がまとめられています。
北中城村村史によればここはトゥヌヤマと呼ばれる場所で500坪の広さがあり昼間でも薄暗い森だったのだそうです。しかし米軍の接収で泡瀬ゴルフ場の駐車場になってしまったので、跡形もなくなってしまったと書かれています。
カニマンウタキとヒジャヌトゥンは琉球國由来記という歴史書にも載っている御嶽。祠のセメントには「1952年10月」と刻されています。
こちらはヨーチガー、タトゥイガーという井戸の遙拝所。
敷地内には戦没者慰霊碑もありました。
ちょっとだけ残った比嘉に行ってみる
さて、どこまでが新たにライカム区になるのかよく分からないのですが、字比嘉も接収されずに家が建っているエリアがあります。
ここには旧比嘉の人は住んでいないと北中城村村史には書かれていましたが、そこには何があるのでしょうか。行ってみました。
普通に住宅街になってます。
電柱は「北中」「プラザ」。多分近くにプラザハウスがあるのでその名前が取られているのだと思います。
字比嘉の表札もありました。多分このあたりは字ライカムにはならないのではないでしょうか。
かつてあった泡瀬ゴルフ場の名残の「ゴルフ」の電柱もありました。
「比嘉」の電柱もあります。
新しいまち、消えた字
というわけで、本日はこれから誕生する字ライカムで字比嘉の名残を探してみました。軍用地の跡地利用としては成功している事例だと思いますし、これから字ライカムはオシャンティーなエリアになるのだと思います。でもここに比嘉という字があったことは記憶に留めておきたいなぁと思いました。
(2019/09/12追記)
比嘉在住です。内地からの転入ですがわずかに昔の名残が残る地名であることは嬉しかったですが、残念ながら今回の改正で字比嘉はなくなりました。字ライカムにかわるみたいですね(no_nameさん)
読者の方のコメントによれば字比嘉は現在残っている場所も含めて字ライカムになるとのことです
戦後、比嘉から沖縄市久保田に多くの住民が移住を余儀なくされたのですが、久保田青年会の旗には比嘉の「比」が残っています。 (沖縄エイサー研究部さん)
沖縄市久保田の旗頭の「比」は字比嘉の「比」なのだそうです。沖縄エイサー研究部さん情報ありがとうございます!