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南風原文化センターと沖縄陸軍病院南風原壕群20号で見る南部戦線の面影
ガマや壕を巡って今回行き着いた南風原
読者のみなさんは、沖縄で戦跡となっているガマや壕に足を運んだことがありますか?
私はこれまで、4箇所訪れたことがあります。
観光名所としても有名な豊見城市の旧海軍壕。
ひめゆり学徒隊も動員された南城市の糸数壕(別名、アブチラガマ)。
集団自決(強制集団死)の起こった悲劇的なガマとして知られる読谷村のチビチリガマ。
そのチビチリガマとは対照的に、一人の死者も出さなかったどころか新しい命が誕生した、うるま市のぬちしぬじガマ(過去記事はこちら)。
「戦跡のガマ・壕」と一括りに言っても、そこに残されたエピソードは千差万別。
ある日、南風原町観光協会の事務局長さんから、南風原にも陸軍病院として使用された壕があることを聞いたので、行ってまいりました。
まずは文化センターから
最初にやってきたのは、町の観光案内所の隣に建つ南風原文化センター。
町の歴史に関する資料が展示されているのですが・・・
展示室への入口が壕のレプリカになっています。しかも、あれに見えるはモンペ姿の当時の女性では・・・。センターの入口が明るいだけに、不気味さが一層引き立つようです。
女性二人がかりで運んでいるものとは・・・
文化センターの敷地の隣には、通称「飯あげの道」というものがあります(当時の名称ではなく、戦後つけられた)。
かつて壕に食事を運ぶため、一日2回、砲弾が飛び交う中、女性たちはこうしてご飯を担いで、片道400mの壕に向かう山道を往復したのだとか。きっと命を落とした人もいたんでしょう。
青く光っているのが「飯あげの道」。光の左端が炊事場で、右端が壕の入口
暗闇の中、やはり不気味に浮かび上がる当時の装備品に日用品。壕の中で発見されたものだと思いますが、過酷な戦時下でもハブラシ、そして娯楽のための碁石が。考えてみたらこの惨事の中、沖縄では三線抱えて逃げた人も相当いたようなので、碁石なんか些細なものですよね。
医薬品。アンプルとか注射器とかかなり綺麗なんだけど?
戦時中は医薬品がなく満足な治療も受けられなかった・・・と聞いたことがあるんですが、実は軍がケチって隠していたため、戦後未使用の医薬品が大量に土の中から発見されたんだとか。
いつまで続くか分からない戦の中で、そうしようとしても不思議ではありませんね。
資料の説明は一旦ここで終了。ここから南風原町に残る壕、その名も沖縄陸軍病院南風原壕群20号に移動しましょう。
やってきたのは山の上
センターから車で約5分の場所にある、黄金森という小高い丘の上にその壕はありました。
AM11:00前なのにこの暗さよ!!
なんというか・・・入口に草木が生い茂っているせいか、壕の受付が異様に暗い。凄惨な場になった壕の中にすら入っていないのに、既に心の矢印はマイナス向き。だいぶ気持ちがしぼんでおります。
こちらに入る時にはガイドが必ず付くのですが、まず壕に入る前に「証言を元に当時の壕の中の臭いを再現した小瓶」という衝撃的なモノが差し出されます。
わざわざ香りの研究所に依頼して作ったんだとか!
この小瓶、大瓶と中瓶にまるでマトリョーシカの芯のように大事に保管されていました。それだけ強烈な臭いがするということでしょう。
ドキドキドキ・・・
この直後、彼女はもの凄い勢いで顔を背けていましたが、私は思ったほど激臭だとは思いませんでした。しいて言えば、強めの革の香り?
当時の壕の中は、人自体の臭いの他、火薬や薬品、そして膿など様々なものが入り混じった悪臭に満ちていたそうで、当時壕にいた人いわく、「壕内での滞在は、何より臭いが辛かった」ということだそうです。
小瓶の臭いの強弱は日によってまちまち。ガイドさん、だいぶ臭いが弱くなってきたのでまた作ってもらおうかなぁ、と呟いていました。しばらく経って再訪したら、強烈な臭いになっているかもしれません。
暗闇のトンネル、壕へ向かう
いざ壕へ!!
く・・・くらぁ・・・。
ここは壕の中ではなく、まだ壕に入る手前の空間。
目の前に転がっていたのは・・・
医薬品の瓶とアンプル、再登場
大きな透明の瓶に入った液体は今も使えるものなんでしょうか?やけに瑞々しい色合いだこと。左隣りの小さなアンプルは別物に変わり果てているようですね。
それ以外にも、この壕を掘るのに使用したというツルハシが転がっています。
扉を開けて壕内部に入ると・・・
そこには灯り一つない、真の暗闇の空間が広がっていました。手中の小さな灯りだけが頼みの綱です。
ここ沖縄陸軍病院南風原壕群20号は、全長約70mという規模の壕で、町の文化財に指定されています。負傷した多くの兵士が運び込まれ、軍医、看護婦、衛生兵、そしてひめゆり学徒隊が兵士たちの看護をしていたのです。
壁が不自然に黒い・・・
この黒さは、戦時中米軍の火炎放射器で壕内を焼かれた跡とのこと。
入口から続いて壕の内部ほとんどにこの黒い跡が残っています。米軍の使用した火炎放射器がどれほど強力なものだったのか、想像に難くありません。
文化センターの入口にも火炎放射器で焼かれる人の姿が
「群壕20号」という名が表すとおり、南風原には多くの人工壕がありましたが、すでに落盤等で崩れてしまい、安全に見ることのできるのはここ20号だけなんだとか。
壕内を支える柱が等間隔にあちこちにあった
部分的にはこうして補強されている
壕の内部は、およそ高さ・幅ともに180cm。この決して広いとは言えない壕の中には、
展示室より
こうして負傷兵を寝かせる幅90cmの2段ベッドがあり、下に軽症患者、上に重症患者を寝かせていたそうです。
ちなみに展示室のベッドにはこんなとこがあります。
- 当然、寝転びましょう。
- あっ!何かある?
寝転んだ人はより深く壕について学べるという仕掛けが。寝転ぶ場所が3箇所ほどあるようなので、全部寝転んで制覇するのもいいでしょう。
壕のほぼ真ん中にやってきた。
ここから左右を見てみると、
- 左は崩落した19号壕への上り道
- 右も危険な21号壕への下り道
ここはちょうど他の壕との連結ポイントということで、わずかに広さが確保されています。
そんなこの場所にかつてあったものとは・・・
こちらも展示室より
手術台です。
1944年の十・十空襲で医薬品の4割を失ったため、1945年4月1日以降に手術を受ける人達は、なんと麻酔なしで手術を受けることもあったんだとか!当然痛くてたまらないので体を押さえつけられ、爆弾の破片を取り除いたり、場合によっては手足を切断されることも・・・考えただけで気絶しそう。
こうして崩落を支える鉄筋もある
戦争が激しくなるにつれ、この壕は捨てられ皆南部に移動していったのですが、動けない重症患者には希望をもたせる言葉をかけながら青酸カリ入りのミルクを配り、毒殺したのだそうです。異様な味に気付いてミルクを吐き出し助かった方の証言が資料室にあるので、是非目を向けてみてください。
20号の出口はやがてすぐそこ
約20分の暗闇の世界から出てきて・・・
資料館にある壕内に残された身に付けるものたちの残骸
アブチラガマでもそうでしたけど、こうして完全な暗闇のガマや壕から出てくると、生きていることを強く感じます。
少なくとも今の日本は戦のまっただ中ではないので、この状態が続くといいなぁと・・・壕から出てくれば、きっと強くそう思うことでしょう。
ちなみに展示室は壕だけでなく、
- 戦車の残骸
- 戦時中の漫画
- 昭和中期の駄菓子屋
- レコード大量
「いくさゆ〜から、あめりかゆ〜、あめりかゆ〜からやまとゆ〜」という言葉が表すとおり、その時代ごとの資料がたくさん展示されており、かなり見応えがありますよ!
この資料館と壕は、セットで見学すると体感、視覚、知識という面から壕のことを学ぶことができます。平和学習をお探しの方は、ぜひこちらに足を運んでみてください。
ついでこちらの壕とセンターは、トリップアドバイザーで南風原町の人気施設第1位と2位に輝いていることを付け加えておきましょうね。