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ソニー坊やの謎に迫る
ソニー坊やを知っていますか?
皆さんは沖縄にの路傍に立ち、交通安全を見守っているコンクリート製の「ソニー坊や」の像をご存じでしょうか?
宜野湾市野嵩のソニー坊や像
その独特の佇まいとフォルムで気になっている方も多いかもしれません。しかもソニー坊や像は県内の一箇所ではなく、現在は本部町謝花、うるま市安慶名、宜野湾市野嵩、西原町兼久、糸満市名城の5箇所にその存在を確認することができるのです。
それではこのソニー坊や、一体誰がなぜ建てるに至ったのかご存じの方はいらっしゃるでしょうか?
このソニー坊やの謎を明らかにする夕べが2014年12月に開催されました。今回はその様子をお伝えしたいと思います。
会場は電波堂ビルの横
ソニー坊やの謎を明らかにする「ソニー坊やを探そう&語ろう!」の夕べが行われたのは
この日めちゃめちゃ雨だった。
那覇市久茂地の「電波堂ビル」の横にある「studio紀々」。
会場にはソニー坊やの情報を持っている人、熱狂的なソニー坊やファン、新聞やテレビなどのマスコミ関係者が集まります。
会の最初に「かぎやで風」と「ラララりうぼう」を披露
こちらが会を主催したstudio紀々のオーナー「哲楽家」の紀々さん。名前を知らない人はいても、県内スーパーのりうぼうで流れている「ラララりうぼう」を歌っている方であると言えば沖縄にお住まいの方は大体知っているのではないでしょうか。あの歌、ついつい口ずさんでしまいますよね。
この紀々さん。実はソニー坊やとものすごく関係がある方なのです。
実はソニー坊やを建てたのは紀々さんの祖父の新川唯介さん。新川さんは復帰前からソニー製品の代理店をやっていた「電波堂」の創業者で、そこで得た利益を還元して沖縄の各地に交通安全を訴えるソニー坊やを建て始めたのだそう。
ソニー坊やは復帰前に沖縄各地に建てられたそうで一体の金額は400ドル。当時の400ドルは実にトタン屋が一軒建つほどの金額だったのだそうです。
その「電波堂」の名前を引き継いだのが今の電波堂ビル。
そしてこのstudio紀々が入っている建物は電波堂の事務所として使われていたのだそうだ。
しかしながら、新川さんは既に他界しておりソニー坊やを建て始めた詳しい経緯などまだまだ不明なことも多いといいます。
そしてキーパーソンをもう一方。フリーアナウンサーでありローフードマイスター、南大東島観光大使などいくつもの肩書きを持つ吉澤直美さん。
吉澤さんはソニー坊やの熱狂的な追っかけで、たまたま紀々さんとの仕事の打ち合わせの時に紀々さんとソニー坊やの関係を知ったそう。そこからソニー坊やを知る人を集めてこのソニー坊やの情報を持ち寄り、謎を明らかにする会「ソニー坊やを探そう&語ろう!」が開催される運びとなったのです。
消えたソニー坊やを捜せ
「ソニー坊やを探そう&語ろう!」の一人目の登壇者は写真家の湊和雄さん。
湊さんは東京から沖縄に来て36年。昆虫や動物を探して本島内を車で回っているうちにソニー坊やが気になり始めてソニー坊やを探すようになったそう。
そして仲間を集めて消えたソニー坊やを捜せ!というサイトをつくるにまで至ったのだとか。
県内ソニー坊や分布図
まずは現存するソニー坊やの分布にそれぞれの特長について説明が始まります。現在確認できるソニー坊やは本部町謝花、うるま市安慶名、宜野湾市野嵩、西原町兼久、糸満市名城の5体。一見して同じように見えるソニー坊や達ですがそれぞれ個性があるのだとか。
糸満市名城のソニー坊や
こちらは糸満市名城の名城ビーチにあるソニー坊や。
このソニー坊やは名城ビーチ(現在は閉鎖中)内にあり、特長としては交通安全のモニュメントなのになぜか海の方を向いていること、そしてなぜか黄色のトレーナーの下地がブルー。一回ブルーに塗ってしまってから上を黄色く塗ったのか?他にはない不思議な塗装のされ方をしているそうです。
海に面した土地にあるこのソニー坊やはかなり塗装が剥がれてしまったので、2003年に有志を集めて再塗装。現在はビーチが閉鎖されて敷地に入れないのですが、現存する姿をちらっと見る事ができるそうです。
西原町兼久のソニー坊や
続いてこちらは西原町の兼久にあるソニー坊や。このソニー坊やは他には無い明確な特徴があります。
それは首。なぜか知らないけどこのソニー坊やにだけ首があるというのです。頭部にすごいひび割れが多いということで、一回首が取れて修復したんじゃないかと湊さんは推測しています。
現在は「製糖記念小公園」がその名残を残しています。
さらに西原町兼久のソニー坊やは一度場所を移転していて昔はサンエー西原シティの角にあったのだそう。その当時は中部製糖という製糖会社でした。
宜野湾市野嵩のソニー坊や
次は宜野湾市野嵩のソニー坊や。現在は琉球交通というタクシー会社の一角にあります。
うるま市安慶名のソニー坊や
こちらはうるま市安慶名にあるソニー坊や。こちらは昔の写真ですが、見ての通りこのソニー坊やは白服でした。何度か誰かが塗り直した形跡があったので、本来の黄色いトレーナーからどこかで白服になったんじゃないのかという話でした。
また、鼻の部分がとれてしまって何とも無残な姿に。
- 鼻の修復作業
- 再塗装後のソニー坊や
こちらも湊さんと有志の方々の手によって鼻の修復と再塗装が行われました。何でもこのためだけに東京から作業をしに来た人もいたのだそうです。
本部町謝花のソニー坊や
最後は本部町謝花にあるソニー坊や。見ての通りこのソニー坊やだけズボンが緑(他の4体は青)。オリジナルのソフビ人形もズボンは緑なのでこれが正式なのではないかということで、本来は緑だったズボンがいつの時代かブルーに塗り替えられたんじゃないのかとのことです。
西原町兼久のソニー坊や、首の謎が明かに
ここで、西原のソニー坊やの謎を知る人物が登壇します。
赤嶺秀男さんは新聞記事でこの会の存在を知って当日駆けつけてくれました。この方がどんな仕事をしているかについてはこちらの記事を見て頂けると早いかもしれません。赤嶺さんは公園にあるコンクリート遊具を40年前から手がけていたという方なのです。
そして、赤嶺さんはなんと西原のソニー坊やの移動を行った当本人なのだそうです。知り合いから依頼を請けて全部ボランティアで作業したのだそう。
そして、西原のソニー坊やだけ首がある謎ですが、移動の際に完全に折れていた首を赤嶺さんが修復したのだそう。西原のソニー坊やは他のソニー坊やよりお腹が出ているメタボ体型なのですが、これも像を修復した結果なのだそう。
ひとつ謎が明らかになりました。
消えていったソニー坊や達
続いて話は消えたソニー坊や達に移ります。
那覇市久茂地の電波堂前。ここにもかつてソニー坊やがあった。
湊さんが活動を始めた13年前は都市伝説のようにまことしやかに「ソニー坊やは10体あった」といわれていたそうです。しかし調査を進めると、ソニー坊やの数は10体では収まりませんでした。
今帰仁村の謝名、恩納村のソニービーチ(黙想の家のちょっと北側にあったらしい)、読谷村伊良皆(読谷高校近く)、沖縄市登川(北美小学校前)、那覇市泊(泊交差点)、那覇市久茂地(電波堂前)などはほぼ確定。さらに海中道路の先の宮城島・伊計島にもあったという噂や首里のグランドキャッスルあたりにあったとの情報も。
そして、1966年1月8日の琉球新報の記事には「糸満市の5箇所にソニー坊やを設置した」という記事が。
これらのソニー坊やは道路の拡張などにより撤去されたり壊されたりしたと推測されますが、いったいいくつのソニー坊や像が沖縄にあったのか、そしてそのソニー坊や達はどこに行ってしまったのかについては明らかになっていません。
今回の会で判明したことは
・ソニー坊やを建てたのは「電波堂」の創業者新川唯介さん。
・ソニー坊やが何体作られた、県内のどこに作られた、という資料は存在しないようである。
・現存するソニー坊やは5体。しかしほぼ確実な証言をあわせると16体以上はかつて存在したようである。
・消えていったソニー坊やがどうなってしまったのか一部を除き明らかになっていない。
という感じでした。
まだまだ分からない事が多くあり引き続き情報を集めよう、という所で今回の会は終了。まだまだソニー坊やについての謎は残ります。
ソニー坊やの情報を募ります
というわけで本日は「ソニー坊やを探そう&語ろう!」で話されたことについて皆さんにご紹介いたしました。
その後、僕が原稿を書くまでの間に、さらに目撃情報などが集まり現在は上の地図のようになっているそうです。写真の赤丸地点が現存の5体。青丸と文字情報が、消えてしまった過去のソニー坊や18体(移設による重複1体)、地図上に「?」とだけ記してある未確認情報が4体。既に2015年1月17日時点での合計が最大26体、最少22体となっているのだとか。ずいぶん増えました。
そこでDEEokinawaでもソニー坊やについて情報を募りたいと思います。
DEEokinawaをご覧の皆さんも「ここにかつてソニー坊やがあった事を知っている」「移動されたソニー坊やはウチにある」みたいな情報をご存じでしたらぜひとも編集部までご一報くださいませ。
沖縄を車で走っていて、いつも何となく視界に入っていたあのソニー坊やのオブジェにはこんな壮大な謎とストーリーが横たわっていたんですね。名城ビーチは閉鎖されているので現在見られるソニー坊やは4体。興味がある方は地図を元にぜひともソニー坊やに会いに行ってみてください。
情報提供はこちらからもできます。
紀々×ソニー坊や
ソニー坊やと仲間たち(Facebookページ)