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昔の沖縄も知ることができる与論民俗村
与論島の南東、赤崎海水浴場の近くにある与論民俗村。昔ながらの与論の生活が見られる施設です。1266年から1610年まで琉球だった与論島。沖縄と似ているところが多々あります。
建物
沖縄イコール赤瓦というイメージが定着していますが、かつては沖縄本島でも政治経済の要だった首里・那覇以外では赤瓦でなく茅葺家屋が多かったそう。こちら民俗村では江戸時代からの茅葺家屋(ススキ)が保存してあり、保存・再現を目指しています。
母屋、台所など小さな家屋を用途別にいくつか作り、その周りを防風林が取り囲み、さらにその外側に田畑を成す形で一つの家族が暮らすのが一般的だったそうで、広い御宅の場合は全部で三千坪ほどもあったとか。
面の多い大きな家屋は台風に弱いことと、建築するための資材確保が大変だったのでこのような工夫がなされていました。
与論島は木が少なく、建築建材は貴重。どこかのお家が島外に引っ越すとかなると、解体後の建材はそのまま捨てず、他のお家で再利用して大切に使っていた。鹿児島になってからは杉などが主流に。昔は畳も手作り。
礎石が残る。高床式の倉庫、高倉があったが台風で倒壊
昨年、与論島を襲った3つの台風。被害は大きく、まだ島のあちこちにその爪痕が残っていました。
与論民俗村の茅葺き家屋も倒壊・破損。新しい材料を使うことなく、今ある材料で修復作業をしています。
暮らし
この家屋は今で言うとダイニングキッチンにあたるところ。
大事な食糧は、アバサーを梁から吊るしてネズミ返しを仕掛けたカゴにて保管。
芭蕉布といえば大宜味村が有名ですが、ここ与論島でも作られ続けています。
おばあ達の世代は、10歳で芭蕉の糸や反物を紡ぐことができるようになり、15歳くらいになると染めまで含め着物を仕上げる全ての工程が一人でできるようになることが目標だったとか。
漁業が盛んな与論島。網などの漁具や、珍しい貝類などが展示されています。
このサバニは実際に昔使われていた物。現存するサバニでは2番目に古いそうです。
与論島の農業の中心はサトウキビ栽培。この砂糖車は、牛がグルグルと牽いてサトウキビを絞り黒糖を作っていたそうです。
沖縄と鹿児島と
1609年の薩摩の琉球侵攻までは、琉球国に属していた与論島。それ以降は薩摩藩支配下にあり、1945年の敗戦から1953年の本土復帰までは、アメリカの統治下にありました。
与論城は、今帰仁城主の北山王の三男が築城を行っていたが、尚巴志により北山王は滅亡したため築城は中止。未完成のまま石垣などが残っています。
琉球から薩摩に変わり、仏教は廃止され島の真ん中にあった寺は壊されて神道に。お葬式も神主さん。神主さんが忙しい冬場はお坊さんでも可。しかし基本的には先祖崇拝。
沖縄本島が見える。その間にはかつての国境
終戦後、奄美群島もアメリカの統治下に置かれますが8年後の1953年、日本に復帰します。沖縄はアメリカの統治下のままだったので、辺戸岬と与論島の間にある北緯27度線が国境となりました。1963年から69年にかけて、沖縄の本土復帰を求めて海上集会が行われていました。
2羽のヤンバルクイナは海を挟んで見つめ合うように設置されています。
館長さんの話がおもしろい
建物や昔の生活が見ることができる与論民俗村ですが、何より面白かったのは館長さんのお話でした。
与論島は動物霊が多く、足のない牛の幽霊とかヤギとか出没するそう。とがったものは魔除けになり、貝が多いけど最強なのは牛のツノ。
与論城跡へ行く途中に金の牛のオブジェ。学校の美術の先生作。与論島でも牛が多くなったのでシンボル的なものとして制作されたそうです。
また与論島でも猫が可愛がられていますが、昔は個別に名前を付けることは無く、一律「かな(加那)」ちゃんという名前。加那とは可愛いもの愛しいもののことだそうです。
などなど。
今では普通に沖縄で使われている言葉も間違って広まったものが多くあるそうです。詳しく知りたい方は、館長さんのお話を聞きに行ってみてくださいね。
ということでざっとご紹介しましたが、興味深い発見がいろいろある与論民俗村。島への旅行の際に、ぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか?