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ありがとうさようなら、沖縄バヤリース!!
衝撃の会社解散発表
今年の5月に「沖縄のバヤリースオレンジは、なぜ色が濃いのか」という記事を掲載しました。
かなりの反響をいただいたあの取材は、4月2日の午前中に実施したのですが、その日の午後に「沖縄バヤリースが解散」というショッキングな発表があり、翌3日の新聞に大々的に取り上げられていました。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-222804-storytopic-4.html
4月3日付 琉球新報「沖縄バヤリース、アサヒに譲渡」
あとで担当者の方から「この件がバレないように取材対応するのが大変でした」と聞き、全くそんなことを感じなかった、自分の感性の鈍さを嘆いたものです。
で、その時のリベンジというワケでもないのですが、最後に沖縄バヤリースの会長と社長の話を聞きたいと取材をお願いしたところ、なんと了承いただけたのです!!
というわけで、ふたたび、沖縄バヤリースさんに行ってきましたー。
さっそく、沖縄バヤリースの本社へ
いつか見たのと同じ風景ですが… 前回と気持ちが違いすぎる。
今回も取材を担当いただいたのは、総務部企画課長の大城あさ子さん。
写真はやっぱりNGだそうです、残念。。
懐かしの応接室。
今年の10月にあざまサンサンビーチで企画展などもあったので、微妙に変化がありますね。
まずは工場見学を
といっても、今年10月末日で、ラインは止まっています。
工場を見せていただき、稼動していた時代の空気を想像することぐらいしかできませんが…。
すでに現役ではなくなっている生産ライン。
このラインの老朽化が、今回の会社譲渡の原因のひとつだったそうです。
「沖縄バヤリース」の商品は、ここにある分で全部。
来年からはアサヒオリオンカルピス飲料さんに、商品の一部が受け継がれます。
この工場で作られた、最後のバヤリースオレンジは?
で、ここで大城さんに、少しワガママなお願いをしてみました。「この工場で作られた、最後のバヤリースオレンジが飲みたい」と。
「急に言うな」と怒られても文句の言えないところですが、
とっさに「そうですね。最後の日に作られたバヤリースオレンジならありますよ」との回答が。
大城さん、素敵すぎます(笑)
さっそく応接室に戻って、それをいただくことになりました。
最後の日に作られた、バヤリースオレンジ1ケース
以下は、大城さんに調べていただいた、この工場で作られたバヤリースオレンジの最終の製造日と、その日の製造本数です。
・【ビン200ML】…11,535本
最終の製造年月日2014.10.27(賞味期限2015.6.29まで)
・【ペットボトル500ML】…23,328本
最終の製造年月日2014.10.21(賞味期限2015.4.20まで)
・【ペットボトル1.5L】…34,408本
最終の製造年月日2014.10.8(賞味期限2015.4.7まで)
みなさんも、この賞味期限を見ながら、南城市で最後に作られたバヤリースオレンジを探してみるのも楽しいかも知れませんね。
キャップの賞味期限が15.6.29。
間違いなく最終日に作られたバヤリースオレンジだ!!
このビンも、今年で最後かも。。
そして、この最後のバヤリースオレンジを飲もう!
とした瞬間…
会長・社長とご挨拶、そして乾杯
沖縄バヤリースの安里祥徳会長(以下、安里会長)と、上間長恒社長(以下、上間社長)が入って来られました。
ご挨拶をして、さっそく取材という流れに。
まずは、最後のバヤリースオレンジで、かんぱーい!
右:上間社長 中央:安里会長 左:私
この名刺も、今年いっぱいです。貴重です。
名刺の写真をそのまま載せる、ありえない画像。
名刺のデザインを残したいということで、特別に許可をいただきました。
そういえば、この紙コップも今年で最後なんだろうか…。
社員全員が株主でスタート
― 今年で解散してしまう沖縄バヤリース。まずは会社の始まりを教えてください。
安里会長
沖縄バヤリースの創業は1972年。前身のアメリカンボトリング社が、沖縄の日本復帰を機に、会社を解散しようとしました。
その時に、社員が自分たちで会社を買い取って、事業を引き継ぐ交渉をしましたのですが、アメリカンボトリング社の資本金、30万ドルに倣って、我々も30万ドルを目標にかかげました。
私は「はした金では会社は興せないよ」と皆に伝えながら、お金を集めることに奔走しました。
新しい会社へ就職するには「最低でも、基本給10ヶ月分、もしくは1000ドルの出資」を条件としました。
当時は月給が、70~100ドルぐらいですから、かなりの金額ですね。
アメリカンボトリング社にいた約150名の社員のうち、約60名がその条件での就職を希望し、まず12万ドルが集まりました。
でも、お金がないと言って、就職をあきらめる人も多かったですね。
応接室にあった、アメリカンボトリング社時代の工場写真。
安里会長
国道58号線沿いの、今は浦添のメイクマンのあるあたりに、アメリカンボトリング社の工場がありました。
― 沖縄の日本復帰と同時に、会社も激動だったんですね。
安里会長
そうですね。あと足りないお金は外部から集めました。その中では、沖縄中央相互銀行の専務だった知名定興氏からも出資いただいて、沖縄バヤリースの初代社長も引き受けていただきました。
その後、知名氏の人脈のおかげで必要な資金がすべて集まりました。
当時の沖縄で、こういう仕組みで会社を運営していたのは、ウチだけでした。
バヤリースを飲みながら色々と話してくださった安里会長
― お金が調達できたら、新工場も作らないといけませんよね?
安里会長
アメリカンボトリング社の工場は、1年だけ浦添の土地と工場は使って良いという話になっていたので、その1年の間は、工場に使えそうな土地の情報があれば、あちこちに見に行きました。
しかも時期的に沖縄の日本復帰の時期だったので、「沖縄の地価が高騰するんじゃないか」と考えられていて、開発業者や不動産屋が、本土から大量にきていました。
色々な情報が飛び交っていて、大変でしたよ(笑)
たった一人の地主の反対で買えなくなったり、農業でしか使えない土地を紹介されたり、色々と苦労はありましたが、無事に今の場所に土地を確保し、移転することが出来ました。
これで全てが揃って、1973年3月から、現在の工場での操業が開始しました。
南城市大里に完成した新工場(当時)。2014年現在まで稼働し続けました。
紆余曲折を経て
― それからは順調にいったんでしょうか?
安里会長
こうやって無事に新工場は稼働したものの、沖縄バヤリースは山あり谷あり、色々な経験をしました。
新工場の機械は、ある飲料メーカーから購入した中古品だったのですが、これが故障だらけ。
機械は止まる、電気は使う、生産は遅い…。
ストップウォッチ片手に、大きな故障から順番に修理していく毎日でした。
またこの同時期に、アメリカの原料メーカーが変わり、原液の品質が落ちたため、売上が減少し赤字になりました。
その後、日本のJAS規格に合うよう、商品を改良。工場の稼働率もあがり、お客さんも戻ってきて、売上が回復しました。
次に、容器が大型ガラス瓶の時代は、瓶の原価が大手飲料メーカーの倍だったため、また赤字になってしまいました。
香港のバヤリースが営業をやめるということで瓶を買いに行ったりもしましたが、その後、容器の主流がペットボトルに移ったことで、他社とそれほど変わらないコストとなり、再び売上と利益が回復しました。
ずっと山あり谷あり、こんな感じです(笑)
応接室にあった瓶の容器。
こうやって話を聞くと、また違った見方ができます。
飲料メーカーとしての転機!
安里会長
実は平成11年から12年頃、経営が行き詰まり、県内のある企業へ事業譲渡する話もあったのですが、色々ありご破算になりました。
その時にも事業を続けるのか、やめるのか、株主でもある社員全員で話し合った結果…
もう一度事業を継続するという決断をしました。
その時に転機がありました。
2002年に発売した「シークヮーサー入り四季柑」が大人気商品になったんです。
このバヤリースオレンジにも劣らない人気商品が…
シークヮーサーの可能性
― なぜシークヮーサーに注目したのですか?
安里会長
10年以上前から、シークヮーサーの成分が、沖縄の長寿の秘訣なのでは? との報道や研究結果が、出てきました。
当時、大宜味村が長寿日本一の村でして、その大宜味村で栽培されているシークヮーサーが、体に良いのでは?という話でした。
シークヮーサードリンク
安里会長
そこで、体に良いのなら商品化しようと考え、ジュースにしました。
ただ、ここで大事なのは、濃縮果汁還元ではなく、ストレート果汁であること。
これだと、製造コストは高くなるものの、ビタミンなどの栄養素が壊れないのです。
また、シークヮーサーは、台湾にも大量にあり、これは一年中、実がつく。
なので、これは四季柑という方が良いのでは?という指摘があり、
商品名を「シークヮーサー入り四季柑」と名付けました。
大人気となった「シークヮーサー入り四季柑」
安里会長
「シークヮーサー入り四季柑」については、良い話ばかり聞きます。
例えば、居酒屋で、お酒にこの商品を混ぜると、酔いにくくなった。
例えば、毎日飲むだけで、血糖値が下がる。
などなど。
より研究を進めれば、さらなる効果なども発見できるかも知れませんが…。
研究には時間もコストもかかるし、もしさらなる新効果が発見されると原材料のシークワサーや四季柑のコストが上がってしまう…
ということで…。
結局、沖縄バヤリースとしては、研究は進めませんでした(笑)
逆に言えば、これらの果実は、まだまだ可能性を秘めている、ということですね。皮の部分にも、色々と面白い成分があるらしいのですが、これはこれから研究が進むのではないでしょうか。
まだまだ可能性がありそう。
バヤリースオレンジとシークヮーサーの二本柱
― では、勝負できる商品が二つになった感じですね。
安里会長
そうですね。
沖縄では、昔からバヤリースは少し特別な飲み物でした。
例えば、先生が家庭訪問に来る時には、男性の先生にはコーラを、女性の先生にはバヤリースを出しましたし、復帰前の結婚式では、男性席にはコーラと泡盛、女性席にはバヤリースを置いていました。
飲み物主導の席の配置だった訳です(笑)
そして、そういう場では、必ずバヤリースが置かれていて。それがおもてなしでした。
そんな歴史のあるバヤリースオレンジと、新しい人気商品であるシークヮーサーの二本柱の時代が、ここ10年ほど続きましたが…
アメリカンボトリング社のメモ。会社を整理してたら、出てきたそうです。
飲料メーカーには厳しい時代だ。
― それでも、経営は厳しかったのですか?
安里会長
競争の激化により、商品の売値は下がる一方で、賃金は上がる。
去年、会社で計算してみたら、賃金は18倍になっているのに、売値は2倍にもなっていないんです!
要は、飲料メーカーはなかなか儲からない時代になってきた!!ということです。
バヤリースを飲む、上間社長
上間社長
私が社長になって10年ほどなんですが、私は最初から後継者探しをしていました。
ただ、沖縄でのバヤリースの看板の大きさだったり、飲料メーカーを取り巻く環境の厳しさだったり、結局、外部から人材を引っ張ってくるというのは難しかった。
ラインの老朽化もあり、新工場を建設するのは難しく、事業を譲渡するというかたちに至りました。
沖縄バヤリース35周年記念の楯
商品のこれから
― 来年からも、継続して飲めるのは、どの商品なのでしょうか?
大城さん
やはり人気のある商品を中心に、継続して生産されることが決まっています。
残る商品は、合計11アイテムです。
・バヤリースオレンジ(1.5L・500MLペットボトル、350ML缶)
・サンサンクリームソーダ(500MLペットボトル)
・シークヮーサー入り四季柑100%(1.5L・500MLペットボトル)
・シークヮーサー入り四季柑10%(1.5L・500MLペットボトル)
・グヮバ(350ML)
・シークヮーサー(350ML)
・マンゴー(350ML)
これだけ残ります。
色々あって、マンゴーのみ商品写真で。
これらのアイテムは、基本的なデザインや味は変わらず、そのまま生産されるようです。
バヤリースオレンジは、内地と味が違うのでどうなるのか?という問い合わせもあるのですが、今まで通りの、沖縄バヤリースで作ってきた味を楽しんでいただけます。
安里会長と上間社長のこれから
― お二人は、会社が解散した後は、何をされるご予定ですか?
安里会長
シークヮーサーは実がつくまで時間がかかるので、実がつくのが早いパパイヤを作るつもりです(笑)
この世で一番おいしい品種のパパイヤを調べてあるので、これをのんびり作りたいと考えています。
上間社長
シークヮーサーの原材料集めに苦労した経験から、沖縄県にシークヮーサーの研究拠点を作りたい。
今は、各自バラバラで研究している状態で、データを集積している場所が、沖縄にない。
なので、シークヮーサーのデータセンターを作りたいと考えています。
さすがはバヤリース出身だと言われるように、頑張りたい!
会社解散は、バヤリースオレンジの新たなる出発
上間社長
アサヒ飲料さんの関連会社である、アサヒオリオンカルピス飲料さんが、来年から当社の製品を引き継いで販売することになったことはとても意味が大きいのです。
今まで、日本で2社が製造してきたバヤリースが、これでついに1社になり、バヤリースブランドが統一されるということです。
会社が解散するということで寂しさもありますが、ブランドが残るという安心感が大きいですね。
ブルアイマークのバヤリース瓶。
これは沖縄だけで使われていたロゴだそうです。
上間社長
沖縄でのバヤリースは、
1950年代、60年代の第一期 外資企業時代
1972年から2014年までの第二期 沖縄バヤリース時代
を経て、
これからは第三期の新しい時代が始まります。
バヤリースは、これだけの時代の人々から愛されてきた商品なのです。
沖縄バヤリースという会社はなくなりますが、まだまだバヤリースという飲料には、これからの未来がある。
これからも、応援していただけたら嬉しいです。
- これも貴重すぎる品。中身入りベストソーダ!!
- この工場で作っていたものが、整理していたら出てきたそうです。
バヤリースのカタカナ表記は…
― なるほど、バヤリースブランドが統一され、新時代を迎えるということですね!
安里会長
あと、ちょっと余談になりますが…
バヤリースは、復帰前はバイヤリース、バヤリー、バーレースなどと呼ばれていました。
発音が難しいということで色んな呼び方をされていたのですが、全てバヤリースのことです。
外資企業時代には、カタカナ表記にする際に、どう表記しようか?という議論があったのですが、最終的には日本で当時の販売元であった、アサヒビールさんがカタカナで「バャリース」と表記していたのを見つけ、それにあわせました。
そういう意味では、今回が二度目の統一と言えるのかも知れません(笑)
応接室にて、沖縄バヤリースの全商品ラインナップ。
取材を終えて
バヤリースが、沖縄でいかに特別な存在であったのか、愛されていたのか、そんなことが分かるエピソードばかりだった。
そして、バヤリースへの愛情あふれる会話が気持ち良かったあまり、予想以上の長いインタビューになってしまったのです。。
予定を大幅に超えてのロングインタビューをさせていただいた、安里会長、上間社長、大城さんに、感謝いたします。
また、沖縄バヤリースの関係各位にも、感謝いたします。
42年間、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。
沖縄バヤリース本社の社名看板
そして…
沖縄のみなさん、これからもバヤリースを、飲み続けていきましょうね。
取材協力
沖縄バヤリース
沖縄県南城市大里字古堅1208